2021/12/20 08:28

本日、12月20日は『石鼎忌』。


…と言っても、ほとんどの方は何のことかわからないかと思います。

○○忌とは、文人・俳人の故人を偲ぶために作られた忌日のことです。

例えば、芥川龍之介の命日を『河童忌』(水泳が得意だった為)、寺山修司の命日を『修司忌』と呼び、
回忌ごとに、その人を偲んだ句で季語として使います。


石鼎とは簸川郡塩冶村(出雲市)出身の俳人 原石鼎(はら せきてい)のこと。
先日、我が社でこの原石鼎の句碑を作成いたしました。


(塩冶揚公園)

しかしお恥ずかしながら、私はこれまで原石鼎という人物をとんと知りませんでした・・・ので!

今回は新しい碑を含め、市内に点在する句碑をぐるっとたどりながら

俳人 原石鼎について解説しようと思います!



句の年代順にたどっていきますと、まず高瀬川沿いのこちらの句碑。


(二京町公園)

「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」(大正元年)


刻まれているのは、石鼎を代表する句の一つ。

石鼎は県立簸川中学校(現:大社高校)を卒業後、医師の道を歩むべく京都医専に入学。
しかし文芸に没頭するあまり2年連続で落第し、放校処分になってしまいました。

その後次兄を頼り、医師業の手伝いをしながら奈良県東吉野村で2年間過ごします。
深吉野で詠んだこの句は、俳句誌『ホトトギス』に投稿し注目を集めました。


後にホトトギス派として活躍する石鼎の句には、自然の美しさが率直に表現される特徴があります。
【野菊】というモチーフは、学生時代に初めて賞をとった句にも使われていました。

ちなみに石碑に使われているのは、柱状節理で形成された六方石。
磨き面とそうでない面のコントラストが綺麗な玄武岩です。



さて、そうして東吉野村を後にして帰郷した石鼎を待っていたのは、俳句を捨てて医師になるよう求める父でした。
拒否したことで勘当同然の身となり、しばらく杵築(出雲市大社町)で暮らすことになります。


(亀恵比寿浜 元は笹子トンネル付近にあったが浸食を避けるため移動された)

「磯鷲はかならず巌にとまりけり」(大正2年)




(出雲市駅 JRの夜行バスから降りると、すぐ目の前に現れる石碑)

「盤石をぬく燈台や夏近し」(大正3年)

この頃詠んだこの句からは力強さが感じられますね。
どんなことがあろうと俳句の道を進むという決意が込められているのでしょうか、
それとも自分もそうありたいという願いでしょうか・・・。



そして翌年、杵築から上京した石鼎は高浜虚子をたよってホトトギス社に入社。
大正6年に退社したのちは、新聞社の嘱託として活動します。

そして、大正10年に自ら俳誌『鹿火屋』を創刊。
まさに日御碕の燈台のように堂々と立つこととなったのですね。



(立久恵峡の霊光寺付近 浮嵐橋を渡ってすぐの場所にあった)

「青々とつづく山あり鮎の里」(昭和4年)

鹿火屋の創刊で多くを門徒を迎え絶頂にあった石鼎も、
母に会いに度々故郷へ帰っていたようです。

父との確執で勘当同然となっていた石鼎にとって、
いつも暖かく見守ってくれた母は大きな心の支えであったことでしょう。

母と、母との思い出がつまった故郷への想いは今も数々の句に見ることができます。



(一之谷公園 椿の間からこちらを覗いていました)

「一枝の椿を見むと故郷に」(昭和10年)

昭和10年3月、母危篤の知らせを受けた石鼎が島根に戻り詠んだ句です。



(今も残されている石鼎の生家)

塩冶町には、石鼎の生家が今も残されています。
もう誰もいない静かな庭ですが、この句を詠んだ際に窓から見えたとされる椿がつぼみを膨らませていました。


(椿の根元には黄色いツワブキも咲いている)


石鼎は椿の句の他にも、この時の帰郷でいくつか句を生み出しています。

実は、今回新しく建立された句碑の句もその一つなのです。




(新たに建てられた句碑)


「故郷の すすしの陰や 春の雪」(昭和10年)



新しい句碑は石鼎誕生の地、塩冶町の公園内に建立されました。

そもそも、多くの方は【すすし】ってなんだ?と思われるでしょう。

出雲では稲を刈り終わった田に藁を積みあげたものを、
【猪巣】→【ししす】と呼び、人によって【すすし】となります。
(ご年配の方は【すすす】だったりも)


(隣の顕彰碑より)

地元の方によると、すすしの周りは子どもの遊び場だったとのことで、
石鼎も幼少期には、ままごと遊びをしていたようです。
残念ながら現在ではほとんど見られません。

この句は石鼎の作の中ではあまり有名ではありませんが、
生誕の地に立つ句碑にぴったりであることと、子どもたちに親しみやすい内容であることから選ばれたそうです。

これからはこの公園内で、すすしのように子どもたちに囲まれることでしょう。

ちなみに、句碑の素材となったのは『八雲石』という郷土の玄武岩です。
磨いた面に星の様に散らばるかんらん石が美しいので、ぜひ顔を寄せてみて下さい。


さて、市内の石碑をぐるっとまわりましたが、
句碑は石鼎に限らずいろいろな場所に点在します。

石碑があることで今回の様に郷土の偉人や、
猪巣のように今は見ることができない地元の姿を知る機会にもなるのかもしれないですね。
このブログもいつか石鼎について調べる人の目に留まり、つないでいけたら幸いです。

(取材の帰りに昔遊んだ公園に寄りましたが、遊具が一新されて面影はありませんでした。
 こうして風景が変わっていくことで一層望郷の想いは強くなるのかもしれません)

では、また。