2021/10/21 13:59

こんにちは、読書の秋ですね。

話題の県別魅力度ランキングでも毎回面白くない順位をとっている島根ですが、
実は、そんな島根を魅力的に感じていた人々が居ます。

それは日本の名だたる文豪たち。

題材にした作品が多いということではなく、
島根の県庁所在地、『松江』を訪れる作家が多いのです。
(ちなみに松江に訪れることを来松、出雲は来雲、と呼びます)

主だった人物として4名ほどの文豪が挙げられますが、

最初はそんな文豪の一人、 芥川龍之介 の見た松江を前後編に渡って紹介します。


~~ 解説を挟むため少々長いですが読書代わりにご覧ください ~~



(お堀を進む堀川遊覧船)

芥川による松江の記述があるのは、『松江印象記』
芥川龍之介名義での作品はこれが初出で、
現在芥川の著作権は切れているので青空文庫などでも見ることができます。

彼の松江滞在は23歳の夏。大正4年の8月5日からの17日間。
(つまり、かの有名な『羅生門』を発表する3ヶ月前)

なぜ松江を訪れることになったのかと言いますと、
失恋で傷心の芥川を癒すべく第一高等学校時代の親友、井川恭(改姓後:恒藤恭)が招いたからです。

『松江印象記』となる文は、井川が当時【松陽新報】(現在の山陰中央新報)で連載していた
『翡翠記』の中に『日記にて』と題して寄稿したものです。

来松する前の井川への手紙は、芥川の情熱が強すぎて長いので割愛しますが、
日常の端から端まで伝えたくてしょうがないという感じで、親愛であふれていました。

また、井川と芥川は第一高等学校一部乙類においての成績で1位・2位と並び、

井川も『翡翠記』の中で芥川について「考え方や感じ方が一致する傾向が強かった」と記すなど互いに信頼していたようです。


『松江印象記』はまず、橋の話から始まります。


(北惣門橋 平成6年に復元)

「松江へ来て、まず自分の心をひいたものは、この市を縦横に貫いている川の水とその川の上に架けられた多くの木造の橋とであった。」


芥川は都市化による鉄橋への架け替えを嘆いていた為、松江の各所にある木造の橋を非常に気に入っていました。
現在も遊覧船で松江城の堀にかかる橋をくぐって楽しむことができます。

といっても、芥川が来松した際の【松江大橋】は、木造ではなくそう見える鋼桁橋であり、
しかも、そのほんの数年前まで架けられていた橋は、芥川が忌み嫌うトラス橋(/▽_▽_▽\←こんな橋)でした。

ともかく、日本らしい景観を損なうようなビジュアルの橋にガッカリしていた芥川には嬉しい心遣いであったらしい。
そして今も堀の橋たちはその風情を市によって復元・保全されています。


(城内へ続く千鳥橋)


(稲荷橋)


(亀田橋 この近くに井川が芥川の為に用意した長屋があった)

特に芥川は装飾である擬宝珠を評価。

「古日本の版画家によって、しばしばその構図に利用せられた青銅の擬宝珠をもって
 主要なる装飾としていた一事は自分をしていよいよ深くこれらの橋梁を愛せしめた。」

と語っています。
ここの版画の構図というのは、歌川芳豊の「三条大橋比叡山春霞」や
歌川広重の「名所江戸百景日本橋江戸ばし」、「四月日本橋初かつほ」辺りを指していると思われます。

私も擬宝珠をメインに一枚。


(千鳥橋の擬宝珠 芥川が訪れた日は雨で濡れて一層山陰らしさがあっただろう)


もちろん、この堀が囲む松江城にも言及がある。


(松江城)

「橋梁に次いで、自分の心をとらえたものは千鳥城の天守閣であった。」

芥川は各地の天守閣を愛し、特に職人たちが海外の築城技術を、うまく日本の風景になじませたことを評価していました。

徳川幕府下での「一国一城令」を乗り越えた城たちも、明治6年の「廃城令」によって多くが失われました。

松江城の天守も危ういところでしたが、民間が買い取って保存に努めたため今も数少ない現存天守閣として見ることができます。

ちなみに鳥取では米子城が民間に売却・解体され、鳥取城が残されたが
明治8年に鳥取が島根に編入されてしまったため「県庁所在地以外に城は不要」という観点から鳥取城も陸軍によって解体。
島根県民としてはあまりに申し訳なさすぎます。

芥川はそうして生き残った天守閣を祝福しながら下記の様に描写しました。

「蘆と藺との茂る濠を見下ろして、かすかな夕日の光にぬらされながら、かいつぶり鳴く水に寂しい白壁の影を落としている」
藺(い…イグサのこと)

残念ながら角度的に松江城を映せる水面は撮影できなかったが、天守閣と一緒に撮影することはできた。





また、水草の生い茂り水鳥が鳴くさまは今も残り、さながら印象派の絵画のようでした。


しかし、残念ながら松江の全てが芥川を喜ばせたわけではありません。
その一つが、【松平直政公像】です。現在あるのは再建後の別の物。

像そのものより、その材料となるべく溶かされた銅鏡に問題があったようです。

「泰平の時代に好んで、愛すべき過去の美術品を破壊する必要がどこにあろう。」

確かに青銅鏡は今なら博物館で見るほどの代物(戦時中の金属の供出で減ったのかもしれません)
文化財の保護が一般的になった今では考えられないですね。


(県庁前にある松平直政公像)

現在の直政公像は平成21年のもの。迫力ある姿で市街を見守っています。


そしてもう一つ芥川を悲しませたのが、当時の嫁が島の防波事業。
芥川を招いた友人、井川とともに憤慨しています。

「防波工事の目的が、波浪の害を防いで嫁が島の風趣を保存するためであるとすれば、
かくのごとき無細工な石がきの築造は、その風趣を害する点において、まさしく当初の目的に矛盾するものである。」

この石垣というのは、円柱状の如泥石を積み上げたもので、
現在は如泥石を二列にし、同市大根島の島石による護岸と盛土がしてあります。


(夕日と嫁が島)

工事以前の嫁が島の写真をみると、芥川達の気持ちもわからなくはないですが、
そのおかげで、我々が今もこの嫁が島を望むことができるのもまた事実なので勘弁してもらいたい。
(昭和2年に訪れた島崎藤村だって見れなかったかもしれない)

なお、如泥石は小林如泥が発案した来待石に臼のような溝を加工したもの。
松江でよく採れる資源をうまく活用したのですね。

そして、松江印象記の前編を芥川はこうくくります。

「幸いにしてこの市の川の水は、いっさいの反感に打勝つほど、強い愛惜を自分の心に喚起してくれるのである。」

失恋を傷を癒すのに一役買えたようで安心しました。



そして次回、後編では芥川が評価した松江の街づくりのすばらしさについて写真で紹介します。
最後は夕日のパノラマ写真で。





では、また。

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『松江印象記』からの引用は、『羅生門・鼻・芋粥」』芥川龍之介(角川文庫、角川書店)、
『翡翠記』からの引用は『翡翠記』井川恭(島根国語国文会刊)による。